
「そもそも」で常識を疑う習慣
私が仕事で最も多用する言葉は「そもそも」かもしれません。
「そもそも、それはどういうものなんですか?」
「そもそも、なぜこの事業を開始したのですか?」
「そもそも、それはお客様にとってどううれしいんですか?」
この「そもそも」は、前提を正しく確認するために使います。
なぜならビジネスにおいて、最初の前提があいまいだったり、間違っていたりすることはとても多いからです。
正しく間違える危険性
前提を間違ったまま進めると、どうなるでしょうか。
道筋そのものは論理的で正しくても、出発点が誤っていれば「正しく間違える」ことになります。
たとえば、新しいサービスを検討しているときに「他社もやっているから」「技術的に可能だから」と進めてしまう、ところが肝心の「そもそも、お客様はそれを求めているのか?」という視点が無く、結果として、誰も使わない仕組みだけが残ってしまう…
こんなケースはよくあります。だからこそ「そもそも」に立ち返ることが欠かせません。
日本人は「そもそも」が苦手?
中国では「日本人NPC論」なる論説が話題だそうです。日本人はゲームに出てくるNPC=ノンプレイヤーキャラクターのように、自分の意思を持たず、あらかじめ決められた台詞や動きしかしていないように見える、というのです。極端な見方かもしれませんが、全く的外れとも言えない部分があるような気がします。
特に顕著なのは「ルールを守ることは絶対」という考え方です。
ルールそのものが適切かどうかを疑うのではなく、ルールに従うこと自体が最優先になってしまい、ルールに違反する人は「悪」であり、理由を聞くこともなく排除される、という傾向がある気がします。
しかし、ルールは人が作ったものであり、絶対的に正しいとは限りません。状況や時代の変化によって適切ではなくなることもあります。本来であれば「そもそも、このルールは誰を幸せにするためのものか?」を問い直さなければなりません。
権威にゆだねて安心していないか
それと、これも大きい話になってしまいますが、日本にいると諸外国に比べ、「お上が絶対、お上についていけば安心」という思考が強いような気がします。
上司や役所、あるいは社会的に強い立場の誰かが決めてくれる。自分は従っていれば間違いない。それを無意識の前提にしていないでしょうか。新型コロナのときも「マスクをつけるのかどうなのか、国や政府が決めるべき」といった、「ルールを国・政府が(すべて)決めてほしい」といった意見がよく見られました。
しかし、人生の責任を最終的に引き受けるのは他者ではなく自分です。権威ある人の意見を参考にしてもよいのですが、最後の判断は自分で下さねばなりません。そのためにも「そもそも、私はどうあるべき?何が大切?」と自分で決める必要があります。
「迷惑をかけない」の落とし穴
それらを象徴する、日本でよく言われるワードとして、「他人に迷惑をかけてはいけない」があります。あなたもこう言われて育ったのではないでしょうか。もはや「何がおかしいんだ、そんなこと当然じゃないか」というレベルで浸透していると思われます。
もちろん、周囲への配慮や協調性は一般常識として大切です。
しかし、行き過ぎると、「他人に迷惑をかけてはいけない」が「だから、自分が我慢すればいい」にすり替わっていないでしょうか。
このような我慢は美徳に見えますが、社会をより良くすることはありません。誰もが黙って我慢しているだけででは、不便や不合理なことがあっても放置され続けて終わってしまいます。
「迷惑をかけない、我慢しよう」ではなく、「そもそも、みんなが幸福になるにはどうすればいいか?」の視点がもっとあったほうがよいのではないでしょうか。個人が我慢して下を向いてやり過ごすのではなく、根本的に改善できないかを考えることができれば、社会全体がより良くなります。
「そもそも」で考えよう
こうした考え方は、ビジネスの場でもそのまま当てはまります。
「この会社のルールだから」
「業界の慣習だから」
「目立つと叩かれるから」
こうした理由で思考を止めてしまっては、より良い変化を生むことはありません。
ビジネスに限らず、社会のあらゆる場面で「そもそも」という視点が求められているように感じます。
ルールだから守る、迷惑をかけないために我慢する、などの思考に慣れて当たり前になってしまうと、未来はさらに窮屈なものになってしまうでしょう。もっと言えば、為政者など、ルールを「つくる」側の人に、いいようにコントロールされてしまうかもしれません。
「そもそも、誰のために?」
「そもそも、なぜこれをするのか?」
「そもそも、どうすればみんなが幸福になれるのか?」
この問いを繰り返すことが、より良い社会や仕事への第一歩だと思います。



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