予防線、張ってませんか?
最近、対面やネット上での言葉遣いについて、気になることがあります。
話をする前に「個人的な意見ですが」といった前置きをつける人が多い気がします。
そもそもソーシャルメディアの書き込みなど、個人的な意見であるのが当たり前のはずですが。
また、高カロリーの食事に対して「罪悪感(背徳感)があるけど食べてしまった」といった表現をよく見聞きします。
食事という本来は楽しい行為に、わざわざ「でも私は罪悪感を感じた」などと一種の「言い訳」をしているのです。
私は以上のような思考を「予防線思考」と呼んでいます。
大げさに言えば、現代は予防線だらけの「予防線社会」とも言えます。
では、なぜ人は予防線を張り、予防線社会になってしまったのでしょうか。
なぜ、予防線を張るのか
「予防線思考」の傾向の一因は、炎上を避けたいという意図があると考えられます。
言葉や意見に予防線を張ることで、
「これは私の個人的な考えです」
「誰かを非難したり攻撃をする意図はありません」
「だから私も攻撃しないでね」
と、自分への非難や攻撃を避けようとするのです。
予防線思考は、自分の意見が物議をかもすことを恐れるがゆえに生まれた、自己表現に対する一種のセルフディフェンスとも言えるでしょう。
予防線による「言い訳」
食事において「罪悪感」などの表現を用いることも同様です。
ファストフードなど高カロリーの食事を食べることは、一般的には「かっこいい」「映える」行為ではありません。
いわゆるインターネット上の「キラキラ」とは真逆な行為です。
そんなとき、「ちゃんと私は罪悪感を感じていますよ、これがベストな食事でないことはわかっていますよ、私は本来はきちんとした人間ですよ」ということを暗にアピールしたくて「罪悪感あるけどファストフードを食べちゃった」とソーシャルメディアに書き込むのです。
他者とのコミュニケーションにおいて安全地帯を確保しようとする心理の表れと言えます。
予防線思考の適度なバランス
確かに予防線は、自分を守るために必要なこともあります。
しかし、過度に予防線を張り巡らせることで自分を守ろうとしすぎ、他者を拒絶してコミュニケーションが希薄になるリスクもはらんでいます。
予防線を張り過ぎず、自分と他者の間にある境界線をもっと柔軟にしてもよいのではないでしょうか。
「相違」も「類似」も全て包括し、他者との繋がりを大切にたうえでコミュニケーションのバランスを取ることが大切だと考えます。
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